名前の由来とシンボルマーク
もともとは尾張国(愛知郡)愛知郡(日進村)折戸に在住していたのですが、天明五年に没した木村玄達の時に、同郡野方村に転居しました。木村の家は、玄達の前、医業を五代継承しておりました。
文政五年に没した加藤(木村)玄意が、尾張国主徳川公より御苗字帯刀を授せらる時に、加藤姓となりました。
加藤玄意の長男加藤春三は、嘉永年間(1848-1853)野方で開業し、「松寿堂」と称しました。
愛知県医事風土記に「産科を得意とし、特に薬草について研究が深く、大明萬暦版本草綱目五十二巻三十八冊を読破、久世氏の疾病に関する処方をよく研究し、産婦人科に関する調剤を工夫し、名声四方に聞こえ、尾州家御典医となりました。(お墓には「尾張国主御三家将軍大納言御目見御用懸医師」」)
「産科の業績については、水野陣屋及び挙母の内蔵丹波守等より沢山の書状があり、当時は城東地方を風びした」との記述があります。
加藤春三には五人の男子があり、全員が医業を継承しましたが、その三男、加藤壽作が分家し、知多郡亀崎町に診療出張、後に駒場(豊田市)に居住しました。愛知県医事風土記に「弘化四年 漢方産科開業 愛知県三河国碧海郡駒場村居住 加藤壽作」とあります。
この後、この駒場の加藤家では、ほとんどの男子の名前に「壽(寿)」の文字を入れるようになり、今に至ります。そこで、クリニック名にも、加藤家のシンボルとも言える「寿」の文字を入れたわけです。
このシンボルマークは「宇宙」をイメージしてデザインしてもらったもので、「宇宙には無数の生命が存在する。自分もその無数の生命のうちの一つにすぎない」との思いがこめられています